【動画撮影の仕事で使うカメラを構える田鎖さん=名張市で】

岩手県大槌町出身の田鎖さん

 昨年12月に三重県名張市へ移住したカメラマンの田鎖航太さん(29)。14年前の「あの日」、東日本大震災の津波に襲われた岩手県大槌町の中学3年生だった。津波にのみ込まれた故郷の記憶は、今も鮮明に刻まれている。

田鎖さんが震災当時に使用していた携帯電話

 3人兄弟の長男で、祖父は漁師だった。自宅はリアス式海岸の大槌湾に注ぐ川の河口のそばにあり、幼少期から海とともに育った。

 2011年3月11日は卒業式の前日で、午前中に準備が終わって自宅で昼食を食べた後、仲間とサッカーをしようと再び学校へ向かっていた午後2時46分、突然の激しい揺れに襲われた。

 「地震が来たらすぐ山へ逃げる」。家族で決めていた避難のルールが頭をよぎった。

 田鎖さんは仲間とともに近くの高台を目指して夢中で駆け上がった。開けた場所から下を見ると、あったはずの中学校も街並みも消え去り、一面の海が広がっていた。響き渡るごう音と砂煙、泣き叫ぶ人の声。「僕はただ、呆然としていた」

田鎖さんが震災当時に携帯電話で撮影した、津波にのみ込まれる街の写真(提供)

失われた日常

 東日本大震災では、関連死を含めて2万2000人を超える死者・行方不明者を出した。10メートルから20メートルの津波に襲われた大槌町では、当時の町長を含む1200人以上が犠牲になり、家屋の被害は4000棟を超えた。穏やかな港町は、一瞬で失われた。

 田鎖さんの家族は別々の場所にいたが、奇跡的に7人全員が無事だった。しかし、親類の中には帰らぬ人もいた。

 その日のうちに、自宅があった場所から約13キロ離れた山間部の旧小学校に身を寄せ、避難所での暮らしが始まった。「初めは毛布もなく、新聞紙を体に巻いて眠った。当たり前の生活が、こんなに遠いものになるなんて」

田鎖さんが震災から間もなく携帯電話で撮影した、基礎だけになった自宅跡の写真(提供)

 約2か月の避難所生活後、田鎖さんは内陸の遠野市にある高校へ進学し、家族も避難者向けの住宅へ移った。高校では、小学2年生から続けていたサッカーに打ち込み、全国大会の舞台にも立った。

故郷への思い 屋号に込め

 大学卒業後は3年間、建設関係の会社に勤めたが、学生時代から好きだった映像制作への思いが高まり、大阪で映像プロダクション「RIAS FOCUS(リアスフォーカス)」を起業。屋号はリアス式海岸から取り、「大好きな故郷を忘れない」という思いを込めた。

 現在は、結婚と子育てを機に移り住んだ妻の実家がある名張市を拠点に、企業PVや結婚式、音楽イベントなど幅広い映像制作を手掛け、全国を飛び回る。大槌町へも定期的に仕事で足を運んでいる。

 「あの時ほど絶望したことはないから、今どんなにつらいことや大変なことがあっても『乗り越えられる』と思える」。

 震災から14年。田鎖さんの心には、今も変わらず、海と故郷が息づいている。

2025年3月8日付887号1面から

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